サバイバル登山家
![]() これは究極のLOHAS?
いいえ。サバイバル登山とは、釣りや採集で食いつなぎながらの登山。最小限の装備(電池やバッテリーを必要とする器具一切をもたない。燃料は持たず、着火材のみ)、最小限の食糧(米と調味料、茶)を持って入山。三菜、蛇、蛙は普通食で、死んだ獣を拾えたら大ご馳走だ(手記の中では拾えませんでしたが)という生活。
自然の中で、文明の力を極力借りずに、自分だけの力で何が出来るか試すときの、「生」の実感。
山の獣の傍らで、山の生き物の1種になることの心地よさ。
そんなもののために著者はサバイバル登山をしている・・・と私は読みました。
ではなぜ、命を懸ける必要があるのでしょう。
サバイバル生活なら定点でも可能でしょう。無人島とか原生林とか、余人に干渉されない場所で、何日でも暮してみたらいいでしょう。
なのに著者は登山を選びます。台風のときに風に吹き飛ばされかねない高所にいたり、冬場いつ雪崩が起きても不思議のない場所で雪洞を掘っていたりする、登山。
足の骨を折ったら回復するまでに死んでしまうだろうから、折らないように気をつけるしかない。
そんな生活は、まるで獣のようです。
著者は獣になりたかった? 毛皮や鋭い爪を持たないけれど、智恵を持つニンゲンという獣に。
一個の生き物としての実感を得るために、死の危険もあえて引き受ける登山を選んだのでしょうか・・・・?
黒板五郎(北の国から)やチャールズ・インガルス(大草原の小さな家)の生活は、思えば本当に人間らしいものでした。著者が黒板五郎の自家発電や自作の家を望まなかった理由は、人間的なものに背を向けたかったからかと思います。
著者の思いと自分の理解が乖離しているかもしれないと思うことは珍しくありませんが、今回ほど、その乖離の幅が大きそうな気がすることは稀です。
「わかった」気にさせてくれない本も、いいものだと思います。
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手の大きいお嫁さん
![]() 手の大きいお嫁さん―私の韓国語小辞典
韓国で手が大きいお嫁さんというのは、ふんだんな料理で客をもてなすお嫁さんのこと。
料理の重さでテーブルの脚が軋むくらいが望ましいそうです。
この国に嫁いだ著者の悪戦苦闘と、(多分)それを上回る義父母の苦労を想像すると、・・・・・面白いです、すごく。(読者とは酷薄なものなりけり)
うちの嫁が一番きれいだ。うちの嫁はとても賢い。と、自慢する義父母。
もっともっと褒めてください、木でも山でも登って見せますという嫁。
『褒めて育てよ』は、子育てだけにいう言葉じゃなかったんだなと、あらためて思います。
そして、おだてるのと褒めるのは違う、とも思いました。豚はおだてれば木にも登りますが、人間は褒めなければいけません。
心から相手の存在を喜び肯定していなければ、異文化を背負った大人が「木でも山でも」という気持ちになりはしなかったと思います。
もちろん、韓国の親は親ばかが標準。みんなが「うちの子は賢い」「うちの子は親孝行」「うちの子は・・・・」と信じてそれを口にします。
肯定と信頼だけでは子どもは育たないかもしれませんが、少なくとも「角を矯めて牛を殺す」ということは起こらないと思います。
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