デスノート ラストシーン
![]() 伊出が松田に問う。
「ライトくんはキラだが・・・
おまえ ライトくんを好きだったろう?」
しみじみと二人の会話を読む。
伊出さん、よくそれを口に出しましたね。
松田はライトが好きだった。
私も、ライトが好きだった。
私なんか、ライトがキラだと知っていても好きだったんだから、ライトの清廉潔白な(デスノートの記憶喪失)時代はもちろん、夜神総一郎の遺志を継ぐ息子を装っている時のライトも、松田くんは好きだったんだと思います。
語弊のある言い方だけれど、松田と私はキラ(ライトの裏の顔)もちょっと好きでした。
キラは凶悪犯罪の抑止力として機能し、犯罪発生率を下げていたから。
松田だって一般市民だって私だって、凶悪犯罪者(特に再犯)は死んだ方がいいんじゃないかと思うときがあります。
しかし、犯罪者がひとしなみに死ねばいいとは決して思わないし、本当に罪を悔いている人を死なすべきではないが、誰が本当に悔いているかどうかを知るのはごく難しい、と認識している人が大多数でしょう。
しかしマンガで読んでいる分には、殺したものが殺されるという図は「スッキリ」していて「道理」さえ感じてしまいます。
私は繰り返し、害人削除の発想はいかんと言い続けてきたけれど、それは言い続け考え続けていないと、ついその発想に流れてしまうからです。
そう、ちょうど松田のように。
キラ(粛清者としてのライト)は「重罪を犯せば殺す」という脅しで世を統べました。
法治するより格段に早く、(キラ以外の)人が人を殺さない世界を作り上げました。
松田を通して、作者はもう一度訴えたのかもしれません。
目的の為に手段を選ばないキラは、捜査官全員の殺害も図っただろう。
手段は選ばなければならない。見えないものに自分たちが暮す世界を預けていたら、いつ自分が殺されてもおかしくはないんだ・・・・・。
と。
物語の最後に、キラ信者の祈祷場面が描かれます。
神の教示(ことば)の前でも一考し「それが正しいか正しくないかは自分で決めます」という子どもいれば、腕に抱いた赤子ごと、運命を他者に託したい大人もいるのだなあと印象深いラストシーンです。
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槇村君子「エラいところに嫁いでしまった!」
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子どもは判ってくれない
![]()
デスノートを読み終わり、ボーっとして、活字の世界に帰れるだろうか?という感じだったとき、デスノートに出会う以前にリクエストしていたこの本が届きました。
「国益」とか「公益」を規定することが困難なのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーである限り、その人たちの利益も代表しなければならないという義務を私たちが負っているからである。反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど大きな集団を率いていても「私人」にすぎない。 自分の意見に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間、自分の利益を損なう人間であっても、それが「同じ日本社会」の構成員であるかぎり、その人間は「同胞」であり、その権利を守り、その人の利害を代表することが私の仕事であると言い切れる人間だけがその語の厳密な意味における「公人」、すなわち「市民」(civis)であるとオルテガは考えており、私はその考えを支持する。面倒で果てしない道に思えても、自分が生きているうちに間に合わないと思えても、共存の合意を目指していくことだけは人類の責任です。(この合意が不完全だから紛争や戦争があるんですよね) 本に呼び寄せられること、本に選ばれること、本の「呼び声」を感知できること。それがたぶん本と読者の」あいだに成立するいちばん幸福で豊かな関係ではないかと私は思う。とも著者は語っていて、ここでも言い当てられて呆然としながら、図書館の本じゃ線が引けないから文庫本でで注文しようと決めたのでした。 |
デスノート もう一つの人生
![]() 生来のライトは父譲りのフェアプレイヤー。
(デスノートの記憶をなくしたときのライトの姿は、デスノートがもたらされなかったときのライトの人生を髣髴させます。
Lのためにも、ミサのためにも、ライトの家族のためにも、ライトが記憶を取り戻さなければ良かったのですが、ストーリーテーラーはそこまで甘くありませんでした)
デスノートが無ければ、ライトは父夜神総一郎のような人生を進んでいったのだろうと思います。ただし父を凌ぐ推理力で、いずれはLと犯人を検挙するライバルになったでしょう。
もちろん殺人など思いつきもせず、仲間の命を使い捨てにすることも、女性の気持ちを利用することもせずに。
子ども時代の最後にデスノート(史上最悪の殺人兵器)を手にしなければ、ライトはちゃんと大人になったはずです。
自分にとって正義は一つでも、人間にとって正義は複数(もしかしたら人間の数だけ)ある。
自分の気に入らぬものを削除して理想世界に近づけようとするのは短絡的で楽な方法である。が、人間社会に成熟や進化は、多くの正義が共存できるところにしかありえないと知る大人に・・・・・。
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デスノート 断罪
![]() 注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています
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デスノート 作者の勝負
![]() デスノートに限りませんが、小説でもマンガでも作中の登場人物同士のかけあいに平行して、作者と読者の綱引きが行われます。
多くの読者の関心を引き、注意を逸らさぬように物語を最期まで進められれば、作品は傑作と呼ばれ、小数の興味しか引かなければ駄作と呼ばれることになります。
デスノートの場合、作者は二つの問題をクリアしなくてはなりませんでした。
一つには「端的に言って人殺し」の主人公に、どうやって読者の気持ちをひきつけるか。
もう一つには、Lとライトの攻防をいかに拮抗させるかです。
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アニメ「ハチミツとクローバー」
![]() ハチミツとクローバーのアニメ化!
何でこれをアニメにする必要があるのかわかりません(だって原作以上の作品世界が出来上がるはずないじゃないですか・・・・とあまりアニメを見ない私は思うわけです)が、発売中のDVDをレンタルして見てみたら、「そうか、こういうやり方もあったのか」と思いました。
脚本はほとんど原作のまま。声優さんたちが極端な色をつけずに、ある種淡々と演じてくれるので、科白が原作を読むのと同じような感じで入ってきます。
ギャグシーンとシリアスシーンでは絵のタッチがすっかり変わるのも原作のまま。
書き文字(犬のリーダーの科白やら青春スーツに書かれた文字やら)もそのまま採用されている部分多し。
原作を壊さないいいアニメなんだけど、やはり私はもとのマンガが好きです。
だって、マンガなら、自分の好きなシーンをゆっくり味わえるでしょう? 好きなところでは、絵の隅々までじっくり見て、幾度か科白を読み返して・・・・ということが、マンガならできるわけです。
好きな絵、好きな科白の多いマンガほど、アニメを見ていて
「ああ、もう終っちゃった。このシーンもっとゆっくり見せてー」
と思う回数が多くなります。メディアの特性上仕方のないことなんですが。
「ハチミツとクローバー」のアニメ化で原作にないありがたい点は『全編総カラー』になっていることかな?
とても、きれいな絵です。
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映画「バルトの楽園」
![]() (ウィキペディア「バルトの楽園」より)
第一次世界大戦中の徳島県鳴門市の板東俘虜収容所が舞台で収容所所長・松江豊寿の活躍や、俘虜となったドイツ兵と地元の住民の交流などを描いた作品。松江は被収容者に対し人道的な扱いに心がけ、被収容者による楽団が『交響曲第9番 歓喜の歌』を日本で初めて演奏した。「バルトの楽園」のクライマックスに流れる「第九」は、カラヤン指揮ベルリンフィル演奏のテイクです。 楽器も満足にそろわない(ファゴットはオルガンで代用)捕虜たちのオーケストラに、こんな音が出せるはずがないのだけれど、全く不自然には思えません。 そこにいる人びとにはきっとこのように聞こえていたと思うから。 もしかしたらカラヤンのこの楽の音より、さらに美しく響いていたかもしれないです。 音を奏でる喜びも声を出してわが身を鳴らす喜びも、みな生きているから味わえる喜び。見えない故郷を思う涙も、また。 第九演奏会前のエピソードの中で、私の知っている唯一のドイツ語のセンテンス 「イッヒ リーベ ディッヒ」 が聞き取れました。 青年は、娘がその言葉の意味を知らないと知っていて、この一文を口にします。 求愛ではない「イッヒ リーベ ディッヒ」。 地に落ちて溶けていく、その言の葉・・・・・・。 日本での上映はそろそろ終わりの時期。 まだ見ていない方はぜひご鑑賞ください。 |
危うし!小学校英語
![]() 危うし!小学校英語
![]() |
大人の幸せ?
![]() 大人になって幸せだと初めて思ったのは「摩利と新吾」を19冊(そのとき刊行されていた全部)をまとめ買いしたとき。
次に大人になってよかったと思ったのは「日出処の天子」を愛蔵版で揃えたとき。
あの頃は幸せだったなあ。
現在はハチクロを揃えたため、次の買物は半年後の予定です。今ある何かを手離さなければ、次の本は買えないので。
購入資金がないのではなく、置く場所がない。
置く場所がない 両手で受ける・・・と、ずっと手に持っているわけにも行きません。
何を手離すか、あるいは何を夫に手離してもらうか。
次のボーナス時まで、水面下の攻防が続きます。
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デスノート その結末
![]() まるごとネタバレです。
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デスノート 12
![]() |
ハチクロ閲覧上の注意
![]() 昨日、ハチミツとクローバーの1巻から7巻までを購入し、そのままY子さんに貸し出しました。
そうです。わが職場(殊に私)をデスノートの嵐に巻き込んだY子さんです。
恩人であるY子さんに伝えた注意は以下の通り。
肩を震わせて咽び笑いすることになってもいい場所で読むこと。特に
1.電車の中で読んだときは、どんな結果になろうと貸出主は責任を持たない。
2.異性のいるところで読んだときも、どんな結果になろうと貸出主は責任を持たない。
3.笑いを堪える必要がない場所であっても、自分以外に人がいる限り決して油断をしてはならない。
あまりのおかしさに呼吸困難になり、笑い声を出せないことってあるんですよね。そうすると結局息も絶え絶えに肩を震わせて咽び笑いすることになります。
・・・・どうしても3.の注意をするときに、実感がこもってしまう私。
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夏休みの計画
![]() これは息子の計画で、日課編。
5時「起きる」 6時「新聞を読む」「あさごはん」 7時「宿題」 ・ ・ (中略) ・ ・ 6時「テレビ(まんが)」「おふろ」 7時「よるごはん」「テレビ(プロ野球)」 8時「ねる」 9時「ねてる」 10時「〃」先生が作ったスケジュール表の枠は朝5時から夜10時までの目盛りがあります。 8時9時10時の記入が律儀で笑えます。 |
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() 失敗しました。
デスノート未読分(最終巻)について、内容を知らずに読みたいと願い、他所のブログを見るときも、記事のタイトルや発表時期から、物語の結末を載せていそうなものを避けて閲覧していたのですが・・・。
うっかり、記事に寄せられたコメントを読んでいて、結末が分かってしまいました。
・・・・コメント恐るべし。
元の記事を書いた人が伏せていたことも、コメントから漏れてしまうのですね。
まあ、今となっては
「ええ、何を言われようと、自分のこの目で見るまでは信じはしません。
あの子はきっと生きています。生きていますとも」
という気持ちでいるしかありません。
こういうことがあるから、頼りになるのはウィキペディア。
ちゃーんと
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。と書いてくれ、その以前に相当の量の情報が載っています。 コメントもトラックバックもついていないし、AとBの説があるという両論併記で、主観による判断を極力排しているし、 「あああ、ウィキペディアを見るだけにしておけばよかった」 と、今度という今度は思い知りました・・・・。 |
映画 デスノート
![]() 映画「デスノート」を見てきました。
映画は全体に、作りがちゃちで廉い感じです。
Lのいる部屋のドアからして、もうちょっと重厚に出来ないかと思いました。部屋は狭くてインテリアも大量生産品て感じ。
財力もLの謎の一つなのだから、高級感を出して欲しかった。原作では、捜査本部としては場違いな高級ホテルがいい味出していました。
Lの激しい糖分補給振りについても、ジャンクフードをたくさん揃えるのではなく、高級スイーツを一品ずつ次々に繰り出して欲しかったです。
そうしておけば最後に手にしていたポテトチップスが更に引き立ったでしょう。
さてそれぞれの役柄については・・・・・。
まず、ライトが健康的でまっとうで、陰険さがない。ふっくらした頬のかわいい大学生です。
(怜悧な冷たさを出すのに丸顔は向かないと思うなあ)
できることなら若き日の芥川龍之介をキャスティングしたいところ。
ライト役に必要なのは
美しき陰険
だと思います。
Lは健闘していたと思います。物は極力掴まずに、摘まむようにしていました。
期待の夜神総一郎。
苦悩の仕方が一本やりで単純でした。2時間につめこむにはこれが限界かもしれません。
これまた期待のリューク。
壁抜けや屋根抜けを動く絵で見るのはやっぱり楽しい。もっと表情が動くといいんだけど、作り物だからしょうがない?
顔に期待したレイ・ペンバー。
レイ・イワマツと名を変え、仮面ライダーヒビキ(細川何某という人間名もあるらしいけれど、私にとっては仮面ライダー)が出てきました。好きな役者さんでよかった。
それで結局、後編は見なくてもいいかなー。
ライトとLが手錠でつながれるシーンがあるとわかったら必ずいくけど。
(追記)
しまった。手錠より大事なシーンがあったのでした。
Lがライトの腕の中で目をつむるシーン。
やはり後編も見に行かねば!
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デスノート どこまで
![]() デスノートがついに上司の手に落ちた。
・・・・と言っても、誰かが職務中に読んでいて取り上げられたわけではない。
われわれがあまり盛り上がっているので
「それ、俺にも貸して」
ということになったのだ。
これを機会に図書館にもデスノートを入れることに・・・・はならないだろうな。
むしろこの動きは、彼(上司)に隠れてデスノート洋書版をNDC837にそっと紛れ込ませる計画を頓挫させるものだ。
Death Note 2: Confluence (Death Note)
![]() ![]() |
デスノート 気になる言葉
![]() <あげる>
死神が人間にデスノートを「あげる」「あげた」と言っていちゃ死神の沽券に係わります。やっぱりここはノートを「やる」「やった」と言ってもらわなくては。
<集った>
「キラを追う者を集って」という言葉はなんとも奇妙。キラを追う者を募って(その結果)追う者が集ったわけでしょ。
<成人式>
これは言葉ではなく絵の間違い。圧倒的な画力ですべてのコマで「魅せる」仕事をしてきた小畑健さんだけど、この成人式報道場面の絵だけは・・・どう見ても卒業式(学位授与式)。着物の袂の形も変だし。
一応2009年の設定だから、あと3年で女の子が成人式で袴を着用するようになる可能性はなくもないけど・・・ほとんどないと思います。
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デスノート 10-11
![]() 10-11巻はキラ=夜神月(やがみライト)とニアの一騎打ちになってくるので読みやすいです。
活字が増えるのは読みでがあって結構なのですが、活字が絵に被って、ライトの顔がよく見えないのは困ったことです。
しかし、ライトと清美の再会場面はいただけませんでした。
大学時代に二股をかけられて結局捨てられたプライドの高い女性が、簡単にライトに心を許すでしょうか。
「ミサは知性が足りないから」と言うことで、暗に『君には知性がある』と持ち上げる、たったそれだけで、過去の屈辱を水に流す?
無理があるという点で、ここはイエローカードです。
素晴らしかったのは、伸るか反るかの駆け引きの中で
「何の為に」と問い 「念の為に」と答え、共に沈黙したライトとニア。 このときの二人の表情は絶品でした。 男女間の機微に疎い伊出と男女間の機微だけに敏い松田の漫才も面白かったです。 DEATH NOTE How to use it に<デスノートに書き込みをしている途中でノートが燃えた場合、どこまでが有効で何が無効になるか>といったことが書かれているところを見ると、ライトとニアの戦いは最後の最後の最後まで伯仲するんだろうなと思います。 次の巻が回ってくるのは月曜日。泣いても笑っても次巻で完結です。 |
デスノート 8-9
![]() 7巻の終わりからライトの敵はニアとメロの二人になりました。敵がL(エル)一人だった頃に比べて話が散漫になったというのが大方の評らしいのですが、私は読者が「一騎打ち」を望み「三つ巴」を嫌っているのだと思います。
そして私は一騎打ちの方が好き。L退場後のLがニアとメロに分裂したかのような展開は、頭が忙しくて誰かに感情移入する暇がありません。(あ、この印象を人は散漫と呼ぶのか)
インターネットで調べれば、誰かがこのストーリーの先を記しているでしょう。だけど私はそれを読むのを我慢しています。この先のことは何よりもコミックスで読みたいから。
でもやっぱり先は知りたくて、ネット検索をしたい気持ちを紛らわすべく、今後の展開予想でもして見ようと思います。
かつてライトは
「ぼくはいつかこのノートで家族を殺すことになるかもしれない」
と言っていました。そして、限りなくそれに近い結果になりました。
リュークが以前言っていた「いつか俺(リューク)がノートに名前を書いて(ライトを)殺すぞ」も実現するのじゃないかと思います。
そしてその結末にはLが噛んできます。今はもういないLだけど、彼はライトがキラだと信じていた。そして何かを言いかけて死んだ。
きっと彼は将来の布石を打っているはずです。自分が死んだ後で機能する何らかの手を。
・・・・というのが、Lに執着する私の願望。
だってLです。ライトと渡り合ったLです。そんなあにあっさり逝くだけのはずがない。
Lには妙な率直さというか直截なところがあって、そこがかわいかった。しかしニアはずうずうしく、メロはふてぶてしいだけで全然可愛くない。
がんばれライト!負けるな!!
と、感想も散漫になったところで今日はおしまい。
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どうなってるのDION
![]() ここのところDIONがやけに重く、ブログの更新に時間がかかります。それにサイドバーが煙のように消えてしまい、何度更新しても表示されません。
しかたなくブログデザインを変えたら、やっと表示されました。
変えたくなかったのですが。
今回試してみたところ、もともと少ないテンプレートのうち、サイドバーが表示されるのは数種類だけ。選ぶ余地は非常に少ないです。
DIONしっかりして!
もう引越しはしたくないです。。。。。
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デスノート 3-7
![]() ![]() |
ハチミツとクローバー(9)最新刊
![]() ![]() 「生きててくれればいい。一緒にいてくれればいい」と言われることではないでしょうか。 人は、はじめから負けてもいい戦いなど、戦えない・・・・・・。 |
ハチクロの泣き所笑い所
![]() 秊(最も派手に)笑いました。
6巻の父の日パン製作の結末。常人離れした芸術家の神経・・・・。
輦(本当は泣きませんでしたが)感動しました。
胃潰瘍で倒れた竹本と家族の病室での会話。義理の父親もいい男だが、ここでこれが言える義理の息子も本当に偉い。静かにきれいに決まった、動かしがたい名場面。
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ハチミツとクローバー
![]() 人気のコミック「ハチミツとクローバー」。
集英社から、現在0巻から9巻まで刊行されています。(0巻は名場面&インタビュー集なのでストーリーは1巻からです)
私は0巻から7巻まで借りて読みました。
「美男美女(美少女)群像劇」「ツッコミのキレ」と見どころ読みどころ満載なのですが、一番の特徴は登場人物の「他者の中の私を見つめる目」でしょうか。
かつて青春を過ごしたものが、後から来る若者に過去の自分を見出すというパターンが一番多く、大学の先生やら職場(またはアルバイト先)の先輩やらが、若者の青臭さを美化せずに厳しい苦言を与えつつ、それでいて許して待っているのです。彼らが自分で答を出すのを。
若者の方は自分のことも考えるけれど、
「ああ、あのとき○○さんはきっとこう思っていたんだな」
とか
「彼女は今、きっとこんなふうに感じているのだろう」
と誰かの胸中を全力で考え、思い、感じながら大人になっていく。
(他者との親和。それは大人の技であり業です)
美大生(または美大OB)である主人公たちは『青春』という古い言葉で括られるのを嫌がるでしょう。だから私が命名してみます。
「ハチミツとクローバーは『主観と客観の綱渡り期』にいる若者の自己肯定の道程です」
と。
(もちろん、自己肯定には「私は私でしかない」という認識も含まれます)
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ハチクロ
![]() 夫が突然
「桃子桃子、ハチロク読んだ?」
と聞いてきました。
「え?! 最近イニD(頭文字D)コミックス出たっけ?」
と聞きかえすと
「あ? 俺今ハチロクって言った?!」
「言ったよ」
「違った。ハチクロだった」
「はあ~。 そんなに無理して略称を使わなくても『ハチミツとクローバー』って言えばいいじゃない」
「いや、それがフルネームを思い出せなくて」
あああ、年をとるのは不便なものです。
つまり結局、夫が夫の職場でブームになっている『ハチミツとクローバー』を借りて来ていっしょに読むことになったのです。
先に読み始めていた夫がときどき笑いこけていて、そのさまがあまり不気味なので、自分は決してああはなるまいと思って読み始めたのでしたが。
夫が笑いをこらえる様子(そしてこらえ損なう)のが見苦しかったから、自分は始めから笑い全開で行きました。そうしたら夫に
「桃子が読んでるところっておもしれえなあ。もしかして本より面白いかも」
といわれたのでした。
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デスノート 1-2
![]() ついに「デスノート」がやってきた。
と、勿体つけるほどのことではないが、職場で最年少のY子さんが、コミック「デスノート」を1巻から12巻まで一挙購入。それが怒涛の勢いで事務室内を巡っている状態です。
Y子さんは自身は8冊を2日で読了。寝不足で少し目が赤いようでしたが昼寝も居眠りもせずにメインカウンターを勤め切りました。若いんだなあ。
私は1巻を読んだところで、先を読んでいるメンバー(複数)から「一番いい男はレイ・ペンバー」と聞いていたので、2巻冒頭のレイとその婚約者との会話にがっくり。(婚約者がいたことにがっくり来たわけではナイ)
なーんか○○の穴の小さそうな男。観賞用によくても一緒に生活するにはイマイチだと思うなあ。
先行読者によれば、3巻以降はどんどん字が多くなって、読むのに時間と根気を要するそうでが、商売柄活字は恐るるに足りません。
が、しかし問題は・・・・。
みんなストーりーを教えないよう気を使って話してくれているけれど、もうレイが一番いい男でそのレイ以上のいい男が出てこないと聞いてしまっては楽しみ半減。
みんなと自分の好みが違うことを切に祈りつつ、3巻が回ってくるのを待っています。
夫はデスノートの映画を見てきて、
「早く後編が見たい。早く(後編公開予定の)11月にならないかなあ」
と待っています。
多分、3巻以降はいい女がふんだんに出てくるのだと思います。
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青桐
![]() 7月14日 初蜩鳴く
7月15日 初ジージー蝉(油蝉ではなさそうだけどよくわからない)鳴く
7月16日 いつから満開だったかわからない青桐の花、ほぼ散り終わる。
青桐。派手な葉っぱに地味な花・・・・。
気がついたときは満開で、それを書こうと思っているうちに散りきってしまうくらい地味。
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名前
![]() 昔(多分昭和。記憶あいまい)出版された翻訳ものの家庭小説、若草物語の前の「四姉妹」だったかなあ(これもあいまい)、登場人物のマーガレットは菊子、メグは恵って訳されていました。
無理があるけどまったく嘘ではない意訳。(メグの方は音訳ですが)。
マーガレットの名はギリシャ語で「真珠」を意味するマルガリテーヌに由来するそうです。
キク科の花だから菊子でもいいけれど、むしろ珠子の方が良かったかもしれません。
名前も翻訳しなきゃならなかった時代の翻訳者のご苦労が偲ばれます。
しかし赤毛のアンの場合は訳しようがありませんでした。
だって作中で、自分の名前はAnneであってAnnじゃない。必ず終わりにeの字がつくのだと主張しちゃってますから。
ここまで細かく言われていたら、アンを杏やら一子やらに変えられませんでしょう。
赤毛の、と来たそのあとに、いかにも日本人的な名前を添えるのも変なものですしね。
名前を大事にしたアン。
言霊のさきわう国で、愛されるのは道理で。
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書名
![]() 「おねがい!サミアどん」という本を探しに来る人が多くて困った時期がありました。
どうやら先生が
「この番組の原作を読んで感想文を書きなさい」
という課題をだしたようでした。こういうとき往々にして利用者は
「図書館に行けばあるって先生が言った」
とばかり繰り返し、それが最近NHKで始まったばかりのテレビマンガのタイトルであるということはなかなか洩らしません。
利用者の求めている本が、実は「砂の妖精」であることが判るまでに半日かかり(当時私はアニメ番組を全然見ていなかった)、次に利用者に「砂の妖精」が「おねがい!サミアどん」の原作であると納得してもらうのにまた時間がかかり、原作とあまりにもかけ離れたタイトルをつけたNHKに怒りの拳を固めたものでした。
日本人の子どもになじみやすい(アニメーションの)タイトルをと考えた結果なのでしょう。
が、どうしてサミアどん?
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