野生の象がエサを探している?
![]() panicsさんが、餌(エサ)は人が動物を飼育し、または捕えるための食物であるから、「野生の象がエサを探している」というのはおかしいのではないか?という記事を書いておられました。
私は人が食すのは「食事」で、動物が食すのが「餌」である。という定義がどこかにあるのではないかという仮説を立てて、日本国語大辞典に当たってみました。が、そこでも広辞苑と同じような説明しかありませんでした。
やはり野生動物は自分で「食物」を探さないと生きていけない定めのようです。
日本国語大辞典によれば、餌が食物一般を指す用法は盗人の隠語に見られるそうです。
翻ってわが友人A。
盗人どころか正直かつ実直兼率直な彼女は、家族の食事の準備をすることを餌作りといいます。
友人Aは現在大学2年、高校2年、中学3年の3人の男の子の母。彼女なら迷わず、食事と餌の違いは「量」だと断言することでしょう。
スポンサーサイト
|
世間のドクダミ
![]() 群ようこという作家さんを、今まで[多数の著作がある人]としか認識しておらず、今回初めて作品を読みました。
世間のドクダミは縁もゆかりも浮いた話もない中年女性の話なのに、最後まで読みました。初対面の読者を引っ張っていくその力、まさしくプロだと思います。
私が一番感心したのは「別注で取り付けたような下腹部」という表現です。
このリアリズム! 自分のことをここまで思い切って書けるのもすごい。
しかし、他にも感心するところはいっぱいあったはずのに、「別注文の腹」にこんなに引きつけられている自分が悲しい・・・・。
|
チベット語になった『坊っちゃん』
![]() チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種
はチベットで日本語を講じた著者の経験談。
遠く離れたチベットで、国語(チベット語)力衰退を嘆く著者の筆致が、藤原正彦氏の「祖国とは国語」を彷彿させます。
チベット語文法と日本語文法が非常によく似ていることに気づいた著者。チベット人にチベット語と対照して日本語文法を教えれば、日本語文法学習すなわちチベット語文法学習になるのではないか?と予測します。
予測は見事的中。日本語教育は、北京語に侵食されていく現在のチベット語を守る方便となります。
チベット語文化を貶める漢民族の教育政策の中で、チベットの為にできることを模索する教員たち。自分と自分たちの国のために奮励努力する学生たち。
がんばれ、負けるな、と手に汗を握る心地で読み進めました。
「おわりに」の章に、以下の文章がありました。
日本語を風景に喩えると、秋の渓流のイメージになる。 日本語は「てにをは」という流れの上に、漢字や片仮名表記の語が赤や黄色の紅葉の葉のように浮かんで流れ続けるのである。 根拠もなく漢字を制限してしまえば、彩りに乏しい 寂しい流れになり、「てにをは」を的確に使わないと流れが淀んだり渦を作ったりして意味の通りが悪くなる。漢字表記の語彙が貧しくなれば、味わいのない退屈な風景になる。 そして、句読点は流れに変化を与える苔むした石のようで、野放図に接続助詞を続けると面白みの無い、締まりの無い下水溝の流れのような日本語になってしまう。27日、中央教育審議会は小5から英語を必修にするべきだという報告書をだしたそうですが、それで彩り豊かで緩急の流れを持った日本語は守れるのでしょうか? |
春スキー
![]() 子どもの強い希望で、明日からスキー旅行に出かけます。
あちらがたてばこちらが立たないのは世の常ですが、咲き始めたばかりの桜、日々勢いを増していく連翹、はかなくも雄雄しく咲く白木蓮などを置き去りにして、雪の山に向かうのはなんとも惜しいことです・・・。
六つの花に罪はなけれど嘆かれる春のスキーに花あらざるを
|
路傍の花
![]() ようこそブログ「路傍の花」へ。
「路傍の花」を探し当ててくださった皆さんに心から感謝します。
末永くどうぞよろしくお願いします。
|
* HOME *
|